シルクロード餃子を巡る旅①~はじまりはすべて中国
はじめに
「もしも、一生に一つのものしか食べられないとしたら何を選ぶ?」
小学生のようなくだらない質問に、私は即答できる。
“餃子”
餃子が好きだ。焼き餃子も水餃子も、揚げ餃子だって素晴らしい。
中身は豚肉は定番だし、ラムや牛だって最高だ。
2019年秋、当時大学5年生だった私は、卒業旅行として次のテーマを自分に課した。
「中国から大陸に入り、シルクロードを伝ってユーラシア大陸を西に向かい、どのように餃子が変化していくのかを食べ歩く」
知っている人も多いと思うが、餃子的な食べ物はアジアからヨーロッパまで各地にある。
まずなにを以て餃子と定義するかだが、これがなかなか難しい。さきほど挙げたように、中身も調理法も多種多様だからだ。私はひとまず、“粉もので肉類を包んで加熱したもの”と仮定した。
はじまりの街、西安
最初の出発地の設定は簡単だった。
なぜなら、シルクロードの東端といえば長安、いまの西安である(いや、奈良が東端だという意見もあるだろうけれど置いておこう)。
西安といえば粉もの天国。主食は米よりも粉。最近はやりのビャンビャン麺発祥の地である。歴史的にも文化的にも、まさに出発地にふさわしい。
私は、西安からウルムチに入り、そこから国際寝台列車でカザフスタンに向かい、ウズベキスタン、そしてジョージアにたどり着く計画を立てた。最後の夏休みをまるまる使った、約一か月の旅路だ。
ひとつ懸念点として、「女の子が一人で行くなんて危ない」という母親の心配があった。ところが、私が毎日いかにシルクロードがロマンに溢れているか語っていたところ、ついには「私も一緒に行ったら安心だね!」と、当時勤めていた会社を辞めて付いてくるに至った。
その際の旅行記は、母親も公開しているので併せてご覧ください↓
西安。2018年に1年間中国に留学していたので、中国語も話せるし中国自体にこれといって新鮮味はないが、西安はとにかくでかい。中国は基本的にすべてがでかい傾向にあるが、道路から観光地まで、あらゆるものがとにかく規格外にでかい。
とりあえず行った観光街、回民街で小籠包、涼皮(リャンピー)を食べてみた。小籠包は普通に美味しい、予想通りの味。涼皮とは、粉からつくられた冷たい麺類の一種。
この街の特色といえば、名前の通り回民族が多いということだろう。回族とは、中国に住むムスリムの少数民族。街には羊肉串や、ナンのお店がちらほら。もうすでに、シルクロードが始まってる感満々だ。
西安で一番うれしかったのは、留学時代大好きだった火鍋屋さん“呷哺呷哺(しゃぶしゃぶ)”に行けたことだろうか。そういえば日本に出店するという情報が出てから数年経ったけど、どうなったんだろう……。
せっかくなので兵馬俑も見に行ったけれど、入場口から展示室、出口に至るまですべてが広すぎて、ぐったりした記憶しかない……。兵馬俑は5分だけ見て帰った。
もちろん(?)西安事件が起きた張学良の公館跡も尋ねた。
“人民”に揉まれるウルムチ
新疆ウイグル自治区ウルムチには飛行機で向かった。まずウルムチ駅でカザフスタンに向かう国際寝台列車の切符を買おうと思ったのだが、これが辛すぎた。
中国あるあるだが、駅に入場するのに身体検査があり、長蛇の列。いったいどこからどう並んでいるのか、並んでいる誰もわかっていない。割り込み、押し出しは当たり前。
この感じ懐かしいなあと思うのと同時に、割り込まれるとやはりムカつく。コロナを経たいまではどうなっているのかわからないが、こういう場所では、前に並んでいる人にぴったりくっつくように並ぶのが防衛術だ。
駅に入ってからももちろんチケット売り場に長蛇の列。ウルムチからカザフスタン行の鉄道は、2泊3日で263元。当時で4000円くらい。そう考えるとかなり安いな。
駅からタクシーに乗るのも長蛇の列。100人は並んでいるのを待つ気力もなく、ウイグル人のおっちゃんがやっている白タクに乗ることにした。粘れば安くなるだろうけれど、正規料金の2倍くらいだからまあいいかな。私はバックパッカーだと自分で自称したことはないので、法外に高くなければあまり交渉しない。
ウルムチでは、国際大バザールで羊肉とナンを食べてみた。本当はウイグル自治区にもトゥギレという水餃子があるのだけれど、ここ、完全に漢民族向けの観光地で、すべての屋台がスマホ決済しか使えない。
私は留学していたからWechatペイなど使えるけれど、残高が少なく使いたくなかったので使いたくない。現金じゃだめ?と聞きまくったけど10軒くらい断られた。唯一優しいおじさんが許してくれて、ありつけたのがこれ。
外国人にはしんどい、デジタル社会中国の洗礼を受けました。
仲介業者なしで気軽に私費留学する方法
はじめに
2018年3月から2019年1月にかけて、中国に仲介業者なしで私費留学した。
それ以降、後輩や知り合いに私費留学する方法を聞かれることが複数回あった。もっと気軽に私費留学する人が増えることを願って方法をご紹介したい。国によって違いはあるかもしれないが、大まかな流れややるべきことは変わらないはずだ。
すっごく簡単にまとめると、
①行きたい大学に問い合わせる
②今の大学を休学する
③ビザを取る
以上で留学準備はバッチリだ。いってらっしゃい!
行きたい大学に問い合わせる
まず行きたい大学を見つけよう。
中国留学だったらこういうサイトで吟味するのもいいだろう。
ただし大学の設備に関する情報は古いので、Instagramやtwitterで留学経験者の情報を探した方が、より最新情報を得ることができる。
私は①自分が歴史的に興味を持てる土地、②日本人が多すぎず少なすぎない街、③日本語学科が同じキャンパスにある、を基準に探していた。
いくら調べたとしても、生活環境に関しては運の要素も多い。
大都市の大学だとしてもキャンパスが広すぎて街に出かけにくかったり、留学生寮が辺鄙な場所にあったりする。多少のことは諦めよう。
行きたい大学が決まったら公式ホームページを見てみよう。だいたい留学生募集のページがあるはずだ。中国語ができなくても英語版があるから問題ない。
もしも見つけられなかったら、直接英語で留学したい旨をメールしてみよう。だいたい日本語ができる学生や職員がいて、日本語で返事が返ってきたりする。
そこからは指示に従って手続きする。おそらくどこの大学も留学生用マイページが存在する。
そこで個人情報を入力→パスポート、成績証明書、在学証明書アップロード→入学金(400元前後)をクレジットカードで支払い→国際郵便で入学許可証が送られてくる
このような流れで入学手続きは完了!めっちゃ簡単。
今の大学を休学する
これは各大学によって手続きが違うのでなんとも言えない。簡単な面談や審査があるが、送られてきた入学許可証があれば休学できないことはまずないはずだ。
ビザを取る
入学許可証があればビザを申請できる。中国の場合、神谷町にある中国ビザセンターに行く。平日に時間のある学生なら自分で簡単に取れる。社会人は時間的に業者に頼んだ方がいいかもしれない。
現地に行く
航空券を取る。現地に行く。留学始まり!
この時注意をしたいのが、現地に行く時期だ。入学許可証とともに送られてくる書類に、寮に入れる期間や入学手続きの期間が示されているはずだ。余裕を持って入学手続き期間が始まる前日や2日前くらいには到着していたい。
また、仕方なくギリギリで到着する場合は学費や寮費を全額現金で用意しておこう。私は入学手続き最終日に到着し、現金の用意もなく、初対面の人にいきなり18万円借りた。快くお金を貸してくれる人がいるとは限らず、銀行が寮近くにあるとも限らない。
【その1】鉄道42時間昆明〜成都途中下車の旅(昆明、攀枝花編)
はじめに
旅というのは、鉄道抜きでは始まらないとすら思う。
見知らぬ地で見知らぬ景色を眺めながら時間を潰しているひと時こそが、旅愁というもの。
中国の雲南省から四川省にかけて、成昆線と呼ばれる山岳鉄道が通っている。
これまでの旅において鉄道は手段でしかなったが、この鉄道の車窓が素晴らしいと聞き、目的としての鉄道旅に行くことにした。
考えたルートがこちら。
そこから攀枝花、西昌と途中下車していき、成都を目指す。
最後に武漢まで鉄道で帰るという算段。合計移動時間約42時間、総移動距離約3500kmという壮大な計画である。
こんな旅に着いてきてくれたのは、船で大阪~上海までの旅、-27度のアムール川を見る旅も一緒に行った高校の同級生。またまた即レスだった。
はじまりは昆明
さっそく出発地である昆明に着いた友人と私。
そこで私たちは……
中国人の家で飯を食べていた。
どういう状況?
実は、シーサンパンナで出会った中国人青年の故郷が昆明だったので、「今度行くよ!」と伝えたところ「じゃあ一緒にご飯食べよう」と確かに話していた。
どこか食べに行くと思っていたら、連れていかれたのは予想外の実家。
恐る恐る団地の一部屋を訪れると、彼の父親と母親が夕食の準備をしてくれていた。
しかも雲南名物の鳥スープ、汽鶏鍋まである!!
私たちが「おいしそう~~!」「ありがとうございます~~」など言っていると、向こうの両親は「早く食べな!もっと食べな!喋ってないで食べな!!」ととにかく食べさせてくる。
静まり返った空気の中で一家とともに夕食を囲む気まずさに雑談をしようものなら、父親から「もっと食え!!」と飛んでくる。
私たちは無我夢中で食べるマシーンと化して、黙々と白米とおかずを食べ続けた。
高校の同級生、シーサンパンナで会った青年、その両親という謎のメンツ。
「うちに泊まらなくていいの?」と言ってくれるし、ホテルまでのタクシー代も払ってもらってしまった始末。
中国人の歓待力すげえや……。
お土産に果物までたくさんもらった。このミカンがのちのち予想外の役立ち方をしてくるのだった。
私たちはあまりに良くしてもらった事態に驚き、友人が日本から持ってきたカップヌードルを代わりに贈った。
でもよく考えたらカップヌードル、中国にも売ってるわ…。
雲南名物の過橋米線、具材を入れてるときがテンションマックスで食べると「まあ…」って感じ。おいしんだけども。
泊まった宿は明らかにただマンションの一室にい2段ベッド詰め込んだ形で、外国人登記もしてなかった。
夢の成昆線
いよいよ出発の時が来た。
夜、昆明から攀枝花まで向かう。このホームに来るとワクワクするんだよなあ。
これはボックスシートの向かい側のおじさんの脚があまりにもにおうから、貰ったミカンでやり過ごそうとしてる友人。
ありがとうミカン。
夜が深まってくるとこうなってくる。
夜の硬座って外見えないし辛いだけだ…。
深夜0時ごろ、攀枝花駅に着いた。
そして同日早朝6時発の鉄道に乗る予定。ちなみに攀枝花駅からホテルなどがある中心街まではタクシーで30分くらいある。
誰だこのクソネミ行程考えたの…。
しかもこういう疲れてるときに限ってホテル受付のお姉さんが「日本人だ~キャッキャ」みたいな絡みでつらい。
早朝の攀枝花駅。頑張って起きた…。3時間睡眠くらい。
明け方前に乗車するのもなかなかいいね。
これから、7時間ほどの攀枝花~西昌硬座の旅が始まる。
女性の車掌さんがなぜか私たちの席にきて、なにやらパスポートを見せろと言ってきた。
乗ってからなぜ?と思ったが差し出すと、
「うわー本当に日本人だ!西昌に着いたら絶対教えてあげるから安心して!!!」と中国語わからなかったら絶対怒ってると思うような興奮した口調で言われた。やさしい。
だんだんと夜が明け、日が昇ってくるのをじっくり見ることができる。
外が白くなってきた。
完全に日が昇り終わると、外がキラキラ照らされて眺めていて気持ちがいい。
友人は乗車中ずっと爆睡していた。付き合わせてごめん。
独り占め。
さすが山岳鉄道。
かごリュックだ!!
駅も日本のホームみたいに狭い。
一面の風車地帯はなかなか壮観。
7時間の鉄道旅も、移り行く景色を眺めていたらあっという間!
私が中国の都市でも上位に入るほど魅了されることになる、西昌に着いた。
次回、鉄道42時間昆明〜成都途中下車の旅(西昌編)に続く。
朝鮮族自治州で犬肉を食べる
ヴィーガンという概念に出会ってから、食について思うことが増えた。
よく「ヴィーガンは命を大切にしてるはずなのに植物は軽視するのか?」という揶揄に出会う。
私もどこかで考えていたことだ。
しかし、知り合いのヴィーガンの「人はみな自分の食べる、食べないものに勝手に線引きをしてる。
私の線引きは植物か、動物かということ」という言葉を聞いてから、すごくいろいろと腑に落ちた。
そう、あらゆる文化に属する人はみな、自分たちの非論理的な勝手な線引きで食べ物を食べ物と見なしているのだ。
たいていの日本人は犬や猫を食べないし、食べる人を野蛮、かわいそうと見なす。
一方、他の文化からみればタコを食べる日本人が野蛮であったりする。
文化というのは本来そういった恣意的で身勝手で自己弁護的なものなのだろう。
それ以来私は、「命に線引きをせず、できるだけあらゆる命を食べる」ことをモットーに行動するようになった。
文化相対主義と批判されるかもしれないが、あらゆる文化の身勝手で非論理的な部分を取りこみたくなったのだ。
そのモットーのもと、狩猟に参加して鹿を自分で解体して食べたりしていた。
今回の旅、中国の朝鮮族自治州に犬肉を食べに行ったこともその行動の一例であった。
当時留学していた長春から高鉄で3時間ほど、朝鮮族自治州の延吉にきた。
少数民族の街にはお馴染みの、現地言語での駅看板が見える。
とにかく街中のいたるところにハングル!!!
ここ本当に中国?と思うほど。
そしてもちろん中国の街中の至る所にある“アレ”も……。
韓国語できないはずなのに、読めるぞ!!
明らかに見覚えのある熟語が12個並んでいる。
やっぱり。
市場を散策すると、やっぱりキムチ。
いろんな種類を試食出来て楽しい。
延吉というのは特にこれといった観光スポットがない街だけれど、ブラブラ歩いているだけで楽しい。
犬肉がおいしいと有名な店に来た。これは犬肉鍋。いったいどのような味なのだろうか。
う~ん、普通においしい!
猪と牛肉の間みたいなすこし硬めの食感。でもジビエ的な獣臭さは感じられない。
脂っこくなく、すんなり食べられる味。
このような形で提供されると、犬を食べているという抵抗感はない。
こちらはクミン風味の犬肉と野菜の炒め物。
正直に言うと、普通においしいが、わざわざ東京などで普段から食べるかというとそれはないだろう。
やはり食べなれた牛などの方が好きだ。
ただ、犬肉文化に親しんでいる人がいるのは理解できる程度にはおいしい。
結論:やっぱり豚肉うめえ!!!!!現地の韓国料理うめえ!!!!!
中露国境、凍てつくアムール川を眺めて
はじめに
「海外行ったら人生/価値観変わった」
よく聞く言葉であると同時に、バカにされがちな言葉である。
胡散臭いマルチがインドに行って言いそうだなあと私も思っていた。
しかし、確かにたった一度の海外旅行で、私の人生も、価値観も変わってしまったのだ。
何十都市も中国旅行をした今でもなお忘れられぬ瞬間が、黒竜江省黒河にはある。
大学三年生の秋。
サマーインターンの期間をよくわからぬまま無意味に過ごし、まもなく就職活動が控えていた。周りでは早期内定も出ていた。
就活がいやでいやで仕方なく、自分が何をしたいかもわからない私は、とりあえず高校の同級生にLINEを打った。
「中露国境のアムール川眺めに行かん?」
「いいね!」
即レス。
彼女は私同様海外経験が乏しかったが、異様にフッ軽だった。
これ以降も船で大阪から上海に行ったり、昆明~成都途中下車の旅にも即レスで着いてきてくれる貴重な旅友になっていく。
そもそも、なぜアムール川か。
当時の私は石光真清という陸軍軍人が書いた自伝、『城下の人』に熱中していた。彼は日清~第一次世界大戦の間、陸軍のスパイとして中国大陸を駆け回った人物。
黒河は石光も滞在していた街であり、ロシア、清、日本の人々がごちゃ混ぜに暮らしていた地だ。ロシア軍により大虐殺が起きた歴史もある。
当時の東アジアの人々は、憎み合い、殺し合い、助け合い、支え合い、寒い大地を生きてきた。そんな記憶が、石光の自伝にはありありと描写されている。
いわば、好きな本の聖地巡礼。
何をすべきかもわからない当時の私にとっては、彼の何者にもなれる人生が羨ましかったのかもしれない。
そんなこんなで、中国語はニーハオならわかるレベルの女二人で、11月にして零下20度を下回る黒竜江省に行く事になった。
ちなみにこれが人生二度目の海外旅行となった。(一度目は大連・長春)
麗しの街、ハルビン
当時のハルビンはマイナス10度前後。寒いけれど、まあめちゃくちゃ厚着していれば耐えれるかなあという感じ。
地下街もあるから、中を歩けば暖かい。
ハルビン有名な中央大通は、西洋風建築が保存されていて中国とは思えない光景。
東北の水餃子マジでうまい。他の地域の1000倍うまい。マジで。
感動したのは、見たかった広場ダンスが寒いハルビンでも見れたこと。
ハルビン駅に安重根記念館があると聞いていたけれど、改修中で叶わず。
路線バスで1時間半、そこから徒歩15分くらいのところにある。
中国語力ゼロでネットもない状態(前の日にレンタルWiFiを紛失した。ADHDしぐさ)だったので、道行く人に筆談と身振りでなんとか伝えて、辿り着いた達成感がすごくて内容の記憶がない。
中は南京大虐殺記念館のような新しくてモダンな感じの展示だった。
いつもの感じです。
蝋人形のクオリティが高かった。
−27度、極寒の黒河へ!
ロシアと中国の国境の町、黒河へは寝台列車で11時間ほど。
実は初の寝台列車(サンライズ出雲は風情がないのでノーカン)だったため、ワクワクが止まらない。カップラーメンじゃにフォークを挿すやつもしっかり堪能。
初めてだったけど妙に揺れが心地よく、熟睡してしまった。
翌朝。人民の生活音で目がさめる。
窓から外を覗くと、一面雪の大地が見えた。
日本では見ることのない、どこまでもはてしない大地、そして地平線。
奥の方からは熱烈な色の太陽が迫ってきていた。
100年前の人々も、変わらぬ朝日をこの地で見ていたんだろう。
黒河に到着した。
国境の町、終点だ。
駅からタクシーで15分ほどのところにアムール川はある。
ロシアが見える。
向かいの町は、ブラゴベシチェンスク。
この国境沿いの町にも、明治時代に日本から売られた女郎がたくさん移住していた。
石光もここで、日露戦争の5年前から諜報活動を始めた。
ここはずっと、そういった極東のごちゃごちゃした歴史を見てきた町なのだ。
川沿いのいたるところに謎オブジェがある。
ふざけているように見えるかもしれないが、寒すぎて辛い。
こうでもしなきゃ無理。一ミリでも肌が露出していると死ぬ。
ニュースによると大寒波がちょうど押し寄せていて、−27度だったようだ。まだ11月ですけど…??
黒河の街並み。
黒河では、郊外にある愛琿歴史陳列館へ行った。
駅からホテルまでのタクシー運転手は商魂たくましく、翻訳アプリで他にどこ行くのー?俺案内するよ!とノリノリだったため陳列館までチャーターをした。
だいたい片道1時間ほど。
中は撮影禁止でぴったり監視員が付いていたため写真はないが、近辺の歴史を振り返る内容。
特にロシア軍によるアムール川虐殺への力の入れようはすごく、等身大ジオラマで虐殺風景が再現されていた。
なんなら731部隊記念館よりも強い恨みを感じた。
それにしても、タクシー運転手のドライブテクニックがすさまじい。
速度100km超えでバンバン対向車線にはみ出し追い越しをしていく。対向車がきていても気にしない。
東北のドライビングは総じてすさまじいが、なかなかこんなスリルは味わえない。
そして極めつけは街中へ戻ってから。
運転手は翻訳アプリを使って、「今から夜ご飯を食べに自宅に帰ります」などと言い出した。私たちは意味がわからず、てっきりアプリのミスかと思っていた。
ところが確かにホテルには戻らず、住宅街へ。去って行く運転手。
そして現れた、エプロン姿の奥さん。困惑しているとまじで奥さんが運転を始め、無事ホテルに送ってくれた。
彼はただただ晩御飯を一刻も早く食べたかったようだ。何事???????
さすが国境の町、ロシア料理が最高においしい。何?ってくらいボルシチがうまい。ハルビンでもロシア料理を食べたけれど、こちらの圧勝だった。
軍人に囲まれて…
黒河からハルビンへ戻るために駅に入ると、面倒なことが起きた。
なにやら厳かな雰囲気が漂っている。国境警備の軍人がわらわらと立っており、駅に入る人々のチェックをしている。
私たちが身分証としてパスポートを出すと、軍人の顔色が変わる。そして数人が私たちを取り囲み、何かを言ってくる。なんとなく察してパスポートを手渡すと、「動くな」のポーズとともにどこかに持って行かれた。
今思うと国境の町あるあるでなんてことはないのだが、この10分間はびくびくしていた。
無事解放され待合室でドラえもんパズルをしながら暇を潰していると、さきほどの軍人が再び近づいてきた。思わず身構える。
何かを言いたそうにしているので、私はメモとペンを差し出した。
「ドラえもん大好き」
彼は中国語でそう書くとにっこり笑った。
彼は20歳、年下だった。ハルビン出身で、いつか日本で仕事をするのが夢だという。
それから私たちは、いろいろな話を筆談でした。桜は綺麗かとか、ハルビンで一番うまい餃子はどこかとか、家の餃子が一番美味しいとか。
必死に辞書で意味を調べながら、漢字を羅列するなんちゃって中国語を使いながら。
なんだか身構えて怖がっていた自分が恥ずかしくなった。
おわりに
無事帰国した私は、そのまますぐ大学を休学した。
そして中国に留学することを決めた。
翌年3月からの留学は、正規のものだととっくに締め切りが終わっている。
だからといって諦められず、自己手配で直接大学に申し込みのメールをした。
自分がどんな仕事をしたいのか、何者になりたいのかはわからなかった。
とにかく早く中国に行きたい、それだけだ。
何をしたいのかもわからなかった私は、もういなかった。
【後編】ベルギー人と、中国・ミャンマー国境にいった
※途中、ショッキングな画像があります。お食事中の方などはご注意ください。
ヤツの洗礼
ジノー族でミッキーにあった次の日。同じく宿で知り合ったベルギー人のリンと一緒に中国・ミャンマー国境を見にいくことになった。
彼女は大学を休学してヨーロッパを旅行していたらしいが、アジアは初めて。初のアジア旅行に、1人で非漢字圏から来て中国のシーサンパンナをチョイスするのがすごい。
なんでも数週間は滞在する予定らしい。
彼女とのコミュニケーションは英語で行なっていた。
私はもともと5歳児レベルくらいの英語を喋れたはずだが、中国に留学してからは「He 说 ~~~」「那 Let's go 吧」のようなクレオール英語しか喋れなくなってしまっていた。
とはいえ、当時はなんらかの方法で大学のこと、旅行のこと、プロバガンダのことなどたくさんお話をして国境までのバス3時間を過ごした。
着いた!ここを越えるとミャンマーに行ける。
北朝鮮国境などと違い、物々しい雰囲気はゼロ。中国人観光客向けのお土産屋や旅行会社が立ち並ぶ。
しかし国境線はこの先にあるため、国境を眺めるという状態とは程遠い。市場で腹ごしらえをしたあと、近くのタイ族の観光村にある国境を目指すことにした。
こういう麺料理、なにかわからないけど美味しい。
タイ族の村までは白タクで10分ほど。乗る前にバスターミナルのトイレへ向かったところ、ヤツに遭遇した。
ニーハオトイレだ。
今まで壁がないトイレは何度か経験したことがあるが、これはなかなかの特級。
正直普通に野ションしたほうが百倍清潔感がある。
「私は日本人です!」
洗礼を受けながら、タイ族の村へ向かった私とリン。
ここもまた観光地だが、中国とは思えぬゆったりとした時間が流れていてなかなか良い場所だった。
こういうココナッツジュースって見た目の期待値を味が越えることはない。
10月初旬にもかかわらずとにかく暑い。
村の端っこにあった国境線。
この川の向こうが、ミャンマーなんだ。
特に誰もおらず、ただゆったりと川が流れているだけ。
これは地元の人はよく行き来しているというのも頷ける。今まで見て来た国境の中で一番緊張感がなく、地元に馴染んでいる。
ただこれを見るためだけに来てよかった、と思わせる雰囲気がある。
それはそうと、行きのバスにしろ帰りのバスにしろ、少し困ったことになった。
流石にこれだけ密接した国境地帯ゆえなのか、バスで1、2時間走るごとに検問を受けなければいけない。
検問では武警がバスに乗って来て、全員身分証の提出を求められる。
リンを見た瞬間、武警は「OK、外国人ね」という対応になる。しかし私が日本国のパスポートを見せると、「は?お前も外国人?!」という対応に変わる。
これは私がモンゴロイド顔だからだろうが、それにしてもなぜかリンよりも私のほうがより怪しまれるのだ。
ついには私だけバスを降ろされ、検問所に連れていかれた。行きのバス時刻を聞かれ、本当に乗っていたのかを連絡してチェックする徹底ぶり。
そして「本当に日本人?何人?」と武警に尋ねられる始末。
そういわれても、下手くそ中国語で「我是日本人!(私は日本人です!)」と答えるしかない。
「ふーん、日本人がここに何で来るの?」
「国境を見に」
「国境を見てどうするの?」
「楽しむ…」
武警のお兄さんはよくわからん、という顔をして諦めて帰してくれた。
あとで聞くところによると、どうやら中国経由でミャンマーへ抜ける脱北者御用達ルートがあるというのだ。私は脱北者もしくは、脱北者のヘルパーをする韓国人協会関係者と疑われたのかもしれない。
そもそも、シーサンパンナから片道3時間の国境山奥に中国語下手くそな日本人とベルギー人女子2人がいたら怪しむのも当然だ。
おわりに
宿の近くに夜だけ現れる衛生観念ゼロの串焼きは絶品だったし、シーサンパンナでは何を食べても美味しかった。
その後リンとは一度も会っていないし、Wechatで連絡も取れなくなった。
しかし、前編に登場した中国人とはひょんなことから彼の実家で熱烈歓迎されることになったりと、未だに忘れられぬ地になった。
そうはいっても、シーサンパンナの公園にあったこの看板以上に衝撃的なものはなかった。
シーサンパンナには、確かに蒋介石がいた。
【前編】ベルギー人と、中国・ミャンマー国境に行った
はじめに
国境の町が好きだ。
まず歩いていて楽しい。どちらの国とも言えない融合した街並み、食文化、看板を眺めているだけで旅行感が押し寄せてくる。
また、日本では味わえない陸路の国境を観に行くのも良い。
ここを一歩超えるだけで、違う国に行けるという非日常感が良い。
すでに中国・ロシア国境(黒河)を訪れたことがあった私は、南の国境を眺めるべく中国・ミャンマー国境のある雲南省シーサンパンナ自治州へ旅立った。
一日目 景洪にて
雲南省の省都・昆明から飛行機で一時間。シーサンパンナ自治州の景洪市に到着した。
街並みの東南アジア感!漢文明から遠ざかった感!
この街にはタイ族、ジノー族、ハニ族などの少数民族が多く暮らしている。
この文化のごちゃまぜ感が魅力的。
とりあえずご飯を食べる。レモンライスヌードル140円。
大量のパクチーとフライドガーリックとレモンと肉団子、神の組み合わせだ。
夜になると川沿いはライトアップされ、チルな雰囲気。
街中には。少数民族の多い地域によくある少数民族言語での社会主義核心価値観がしっかりある。これはタイ族の言語タイ・ルー語。
今回の宿はこちら。
一泊200円という破格だ。
開放的なロビーも趣がある。
この宿で出会った中国人の高校生と屋台を見に散歩した。彼は昆明から一人旅で来たという。
翌日、街からバスで二時間ほどの場所にあるジノー族の村に一緒に行くことになった。
二日目 ジノー族の村にはミッキーがいた
村まではマイクロバスで13元(約220円)で行ける。
舗装があまりされていない山道を走るので酔うなんてレベルじゃない。
村に到着した瞬間、何とも言えない気持ちになった。
わかってはいたけど、あまりにも中国によくある少数民族テーマパークの典型例すぎる。
この赤い弾幕ないとダメっていう法律あるのか?
入り口から民族衣装に扮したジノー族の方々が、観光客を踊りで迎え入れてくれる。
ジノー族には、独自の神話がある。
大昔、大洪水がおき、神に愛されていた一組の男女だけが大きな太鼓に乗り生き残って、ジノー山にたどり着いたのだという。
あれそれって完全にノアの箱舟では……。世界の神話にしばしば登場する大洪水伝説は、ジノー族にもあったらしい。
奇抜な民族衣装の展示だ。
こういう観光地に恒例のパフォーマンスもしっかりある。
昼食を食べられる食堂には舞台があり、ダンスを見ながら食事ができる。
終盤にさしかかると、観光客も参加をして一緒にダンスを踊る謎の時間が始まる。
一緒にいた高校生に「絶対に参加したほうが良い」と強く勧められ、私も舞台でダンスをした。今考えると、なぜ勧めた。
そして最後にはダンス参加者で「民族大団結 祖国は一家族 私はジノー山にいます!」という力強い弾幕と一緒に写真撮影をされた。
上の画像はそのときの写真だ。
文化も体験出来て、なんだかんだで満喫。
お土産物を見ていると、ふと見覚えのあるものを見つけた。
ジノー族の村には、確かにミッキーマウスがいた。
「【後編】私は脱北者じゃない!」に続く